構造馬鹿の四十年 profile へ

気が付けばそれから36年間構造一本で退職まで走っていました。まさに馬鹿の一つ覚え、正真正銘の構造馬鹿です。しかし構造設計という仕事にはまってみると、社会に出た時に思っていたよりはるかに奥が深く取組みがいがあり、キャリアを積めば積むほどその虜になって行きました。力学という理屈を中核に、それを取り巻く法律の制約、諸団体の細則、材料の性質と流通、建設コスト、施主の趣味、デザイナーのこだわり、役所との協議、審査のハードル、施工技術の発見と反省、メーカーノウハウの習得、職人との議論、竣工後のフォローなどなど雑多な知識と経験の統合こそが建築という総合工学です。

整理してみると、私が携わって竣工した建築は約160棟、その延べ床面積も約500万㎡に達します。住宅に例えれば20万都市の全住宅に相当し、ビルに例えれば六本木ヒルズ森タワー13棟分に相当します。

その間にはこの業界が直撃される忘れられない出来事がいくつも起きました。最初は19951月の阪神大震災です。激震地の三宮に自ら設計監理した36階建てのホテルオークラ神戸が立っていました。地震の翌朝西宮から7時間歩いてホテルが直立しているのを見るまでは、何が起こっているのか不安で眠られない一日半でした。それから一ケ月弱ホテルに泊まり込んでの施主・設計・施工者一体となっての復旧のための合宿生活はエンジニアとして生涯忘れられない貴重な体験です。

次は200511月に晴天の霹靂のように社会問題となった姉歯事件です。当時の国会中継とマスコミの興奮、ネットの過熱を見ながら、この事件は必ず建築業界、とりわけ構造設計分野全体を巻き込む暴風のトリガーになると直感しました。なぜなら専門性が高く専門外から見えにくいゆえに構造設計は過信され放置されていたからです。その予感はずばり当たりましたが、最初は追い風だった暴風が、2年後には強烈な向かい風になり、自ら荒れる海を進む船の舳先に立つことになってしまいました。

3番目は20113月の東日本大震災です。東北の津波と原発の人災に加え震源から遠く離れた首都圏の強烈な揺れがビル所有者の危機意識を揺さぶりました。そしてこの震災でも震源付近に自ら設計監理した宮城スタジアムが立っていました。そして300mスパンの大屋根がダメージを受けました。まだ新幹線も不通だった仙台に帰路のガソリンのないマイカーで乗り込み、設計者の自宅にごろ寝して、このスタジアムが来るべき東京オリンピックの会場になるように復旧させたことは、エンジニアの責任とは何かを深く考えさせられる体験でした。